セブキッズとの道!

フィリピン・セブ島を拠点に、スポーツ・音楽教育を通したライフスキル育成に取り組むNPO法人セブンスピリット。

フィリピンにおける芸術文化活動の実態と課題

2010年11月12日、オープンしたばかりの真新しいホテル、Radisson Blue Hotelのコンサートホールにてとあるオーケストラの演奏会が開かれた。マニラ・シンフォニー・オーケストラ(以下MSO)という国内屈指のオーケストラのディナーコンサートである。このオーケストラのセブでの滞在に合わせ、運良く彼らのリハーサルへの立ち会いを許可され、同オーケストラマネージャーへの密着インタビューを行う事が出来た。

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(MSOマネージャー Jeffery Solares氏)

そこで、途上国におけるオーケストラをはじめとした芸術活動が一体どのような実態にあるのか、ここまで学んできた知識の整理と、インタビュー内容の紹介、知識と現場の声の融合という意味で、一度ここで文章にまとめておきたいと思う。

12日のディナーコンサート本番を控え、11日にセブ最大のショッピングモールの一角では弦楽アンサンブルセクションによる無料のパブリックコンサートが催された。用意された100程の椅子は開演数時間前からすでに満席、いざパフォーマンスが始まった時には立ち見客が大勢おり、二階からも多くの買い物客が興味津々に演奏に見入っているという様子だ。そもそも、ここセブで生のクラシック音楽を耳にする機会などほぼ無に等しいといえる。そんな環境も、人々の興味を惹きつける要因の一つであろう。私の隣の席に座っていた子連れの男性は、「クラシック音楽はもちろん、目の前で演奏されるバイオリンの音を聴くことすら生まれて初めてだ。」という。

MSO performance

(パフォーマンスの様子)

フィリピン、セブは常に生活が音楽で溢れている場所である。だが、その音楽の多くはアメリカから輸入された「大衆音楽」。もちろんフィリピン人歌手やバンドも活躍しており人気も高いが、彼らの音楽スタイルもまたアメリカ式ポップ、ロックが殆どである。ラジオやテレビから流れてくる音楽も例に漏れない。公共放送の無いフィリピンではメディアも純粋な資本主義の一歯車なのである。(その点日本のようにNHKという公共放送局を持つ国は、その経済的効果に関係なく全視聴者の需要に極力万遍無く応え、文化・芸術や伝統ジャンルにもフォーカスをできる点で、メディアが一国の文化の保護あるいは発展に大いに助力している一例であろう。)

クラシックと接点のない環境に育った彼らが、わざわざクラシックなどという“お高い”イメージのあるジャンルの音楽に自ら親しもうと思い立つ事はない。そもそも、“お高いイメージ”と書いたが、現実にはそれはイメージだけの話ではない。高価な楽器は庶民には手が届かず、需要の無いクラシックCDは市場に出回っていない。オーケストラ楽器を扱う楽器店すらフィリピンにはほとんど無く、辛うじてバイオリン工房がマニラに一つあるのみでその他の楽器は海外に買い付けに行かねばならないほどだ。需要がなければ音楽産業やクラシックの土壌は成長せず、例えコンサートがあるとしても、それは政府や役所関係のセレモニーの場や富裕層の晩餐会の「オプション」の様なもので、音楽はメインイベントの為のいわば“引き立て役”だ。彼らが本当にクラシックに精通しているのかといえば必ずしもそうではなく、それらのセッティングにおける音楽の役割は「雰囲気作りに徹すること」「空気を乱さないこと」。芸術そのものを楽しむ機会などではない。

セブにも音楽を学ぶことのできる教育機関は確かに存在する。芸術教育に特化した準パブリックの小中学校や、私立大学の中にも音楽科を持つものがある。しかし、上に述べたように一般庶民に芸術文化への門戸が開かれているかといえばそうではないのは明らかだ。学校に関して言えばそれらの学校に入学試験を受ける時点で特定の分野において一定程度のタレントを示さねばならない。ただ、まずピアノやバイオリンなどの器楽や、声楽などを含め、クラシック音楽というジャンルに足を踏み入れ興味を持つこと自体が実際には中流階級以上の層にとっての特権となっているのである。

ここに、僕たちが見落としがちな貧困の実情がある。貧困とは何か。「1日1ドル以下での生活を余儀なくされる層」などと経済的指標で貧困を定義する場合が多く、それは客観的に経済格差の現実を映し出す上で効果的な方法だと言えるが、この計り方の問題は「貧困=経済」という図式に人々の理解を止めてしまう点であると私は思う。もちろん、1日に1食食べるものがあるか、病気をした時に医療サービスを受けることができるか、教育を受けることができるか、それらの人間としての基本的人権は保障されて然るべきであり、それらすら守られていない世界の現実があるのは確かである。だが、実際にはより根の深い人間としての尊厳や自己実現といった一見数値には表れづらい問題が広がっている。この点に関してはアマルティア・センの主張が著名であるが、私たちが貧困を経済格差問題という認識で終わらせてしまいがちな傾向こそが、私の最も怖れることである。

例えば「あなたの趣味・特技は何ですか?」という質問された時、あなたは何と答えるだろうか。スポーツ、読書、音楽、書道…あらゆるパターンが考えられるが、それらは自分が挑戦し、好きになり、やりがいを感じ、そして練習を重ねて上達していったものであろう。きっかけは、ほとんどの場合が親の勧めであったり友人との同調であったりするかもしれないが、次第に自分個人としてその活動に関わる意義を見出していく。しかし、貧困層はどうだろう。「上達」する為に何らかの「非生産的な活動」に関わり続けることはおろか、何か自分にとって特別な価値のある活動をみつけだすことも、好きになることすら出来ない。それは既に中流層の特権なのである。何か人とは違う、自分の好きなパフォーマンスの上達に励み、評価され、自信を感じる。セルフ・エスティームと呼ばれるものであるか、人間が誇りを持って生きていく為に必要な過程ではないかと私は思う。自分の好きなものを持つという事すら、彼らにとっては制限された世界なのである。

先進国や富裕層からの支援という点で見ても、これらの非労働活動に必要な資金の支援にはスポットが当たらない。「食べることに困っている人がいるのならそっちが優先」「娯楽の為の支援ではない」「満足の収入さえない人間が芸術なんて順序が逆だ」。このような意見が聞かれるのは当然であり、ある意味僕たちの持つ「途上国支援」のイメージもむしろこれに近いものがあると思う。ただし、この前提を持っている時点で僕たちは、決して彼らと私達の享受する文化的豊かさを共有しようなどとは考えていないことが分かり、彼らの人間的発展・自己実現の権利を考慮に入れていないのだろうと感じられる。

さて、弦楽アンサンブルの演奏を聴き終えた先の男性は、私の「コンサートはどうだったか」という質問にこう答えた。「本当に楽しめたよ。素晴らしかった。フィリピンではMSOは最も有名なオーケストラの一つだし、他の国でも色んな賞をとったりしている。このような音楽を聴けるのは本当に素晴らしい機会で、もっともっと彼らのようなオーケストラをセブに招待してほしいと思う。普段は教会関係の音楽や民族音楽みたいなものを聴いているかな。もちろん息子にも、育っていくにつれてこのような(クラシック)音楽に触れてほしい。とにかく素晴らしい音楽だからね。」

彼の言葉が、そして全ての聴衆の反応がきっと全てを物語っているだろう。演奏を終えても鳴りやまない拍手。セブの民族曲をアレンジした楽曲を演奏している最中には皆が笑顔で手拍子し、会場全体がその瞬間、その場で生み出される音楽を心から楽しんでいた。

セブには、恒常的な活動を行っているオーケストラは存在しない。かつて、CYSO(セブユースシンフォニーオーケストラ)と呼ばれる青少年オーケストラがレギュラー公演を行っていた時期があるが、現在は解散状態にある。今回インタビューを行ったのは、他ならぬこのCYSO立ち上げ時のメンバーの一人であり、現在はMSO(マニラシンフォニーオーケストラ)のマネージメントを担当するJeffery Solares氏である。マニラ首都圏に暮らす音楽一家に育ち、幼いころから父親にバイオリンの手ほどきを受けていた彼自身、バイオリニストとしてのキャリアを持ち、CYSO創設時には弦楽器の講師陣の一人としてセブに招聘され、事業の成功に尽力した。CYSOとはセブ出身のピアニストSarah Ingrid氏の呼びかけで実現した、セブに住む子供達に音楽教育を提供することでオーケストラ活動への参加を促し、音楽文化の振興を目指した10年越しのプロジェクトである。現在オーケストラ活動は休止しているが、名称をPeace Philharmonic Philippines Foundation, Inc.と名称を変更し、小規模にはなったものの音楽教育活動を続けている。この事業に関してはNHKが特集ドキュメンタリを組んで日本国内で放送しており、日本からもJICAなどから講師が派遣されたことで知られている。

Jeffery氏は言う。「正直に話すと僕自身は、経済的にも環境的にも、音楽を続けていく上でさほど大きな障害は無かった。僕は才能にも恵まれたし、そのおかげで奨学金を得て音楽の道に進むこともできた。このような立場にいる僕は今、より多くの人と音楽の楽しさをシェアする手助けをしたい。」

地方とマニラでは芸術事情も少し違う。マニラでは器楽など音楽の分野でコンクールが開催され、受賞歴などの実績があれば、彼のようにハイスクールやカレッジの学費が免除される場合もある。他にも基金などによる奨学金制度は地方より充実している。MSOはSt. Scholastica’s College of Musicという音楽大学と協力し、独自の音楽家トレーニングプログラムを実施している。PREDIS(Philippines Research for Developing Institutional Soloists)と呼ばれるこのプログラムは、4歳から25歳までの若者を対象とした音楽教育を行っており、日本発のスズキ・メソードを導入した音楽教室の実施のほかに、奨学金の配布も行っている。PREDISで学んだ者は、新たなPREDIS生を教える。このプログラム内での指導サイクルを確立できている点も、長期にわたってトレーニングが成功している秘訣の一つだろう。更にこのトレーニングに関して特筆すべき点は、実際に国内外で活躍する演奏家を数多く輩出している点である。これまでに約300名がこのプログラムを受けているが、その多くが卒業後国内のオーケストラや音楽学校で指導的立場に就いており、現MSOのプレーヤーのほとんどがこのプログラム出身である。

MSOには現在プレーヤーが64名在籍しており、その半数が職業音楽家、残り半数はマニラ周辺の音楽学校で学んでいる学生だ。日本でも同様であるが、メンバーはオーケストラから給料を得ているものの、オーケストラ活動からの収入のみで音楽家が生計を立てていくのは難しい。多くのメンバーが個人レッスンや音楽学校での教師などの副業で生活に必要な資金を稼いでいる。音楽活動を続けるために、自分の専門外の分野に関する音楽指導や、もはや音楽そのものに関係のない分野での副業に就く他なく、自らのレベル向上に十分な時間を費やす事が出来ない場合も多い。Jeffery氏は「今後3年間の間に、彼らの給与を倍にしたい」と意気込む。ほとんどのメンバーが昼間に学業あるいは別の仕事をしながらオーケストラに参加しているため、リハーサルや合同練習は夜間にしか行えず、時間的制約が発生する。よりオーケストラに打ち込める環境を作るには、経済的負担の軽減が不可欠だ。

MSOはプロフェッショナルオーケストラである。すなわち、学生オーケストラやアマチュア団体とは違い、彼らは演奏そのもののクオリティへの対価と求め、それを主な資金として運営を行うオーケストラである。オーケストラの経営実態はいかなるものだろうか。

フィリピンには3つのプロ・オーケストラがあるが、そのうち政府からの支援を受けているのはPPO(Philippines Philharmonic Orchestra)と呼ばれるオーケストラ一つだけであり、MSOは完全に民間団体として活動している。オーケストラを支援する経済人を中心とした有志で構成される運営委員会があり、彼らが経営に関する決定権を握っている。主な収入源はチケット収入や企業、個人からの寄付などだ。「政府支援があれば助かるのでは?」と問うと、Jeffery氏からは「期待していない」という答えが返ってきた。途上国において、政府が文化活動に大規模な予算を割り当てるという考えは現実的なものではない。税制度上でも、楽器をはじめとした音楽関連財は「贅沢品」として高い税が課される。ただでさえ莫大な対外債務を抱え、軍事費や教育予算すらままならない国庫状態で、「短期間で国あるいは国民に目に見えるプラス効果の与えられるプロジェクト」以外の文化事業に予算が付けられることは、きわめて珍しいことであろう。

その極めて珍しい例というのも、ほとんどの場合国際的な潮流に体面を合わせるためであったり、国民感情を抑えるための最低限のアクションであったりする。PPOへの支援はその一つの例と言えるだろう。何かフィリピンという国家の威厳を保つべきイベントが開催される際には、彼らの出番がやってくる。ASEAN会議がフィリピンで開かれた際、各国首脳が集まる席でのBGM演奏を務めたり、政治的イベント、国家を挙げた祝典での演奏を務めたりと、彼らPPOが登場すべき幕は多々ある。しかし、それ以外の団体となると必ずしも政府がパトロンとなって運営の面倒を見る程の義理はないのだ。要するに、途上国における文化支援というのは、芸術文化そのものの発展や保護を目指したサポートというよりもむしろ、国家の威厳やアイデンティティを保つための必要予算、という捉え方をする方がしっくりくる、そんなものである。

さらにJeffery氏は「政府や社会はオーケストラ活動に対して賛同的ではない」と付け加えた。政府はオーケストラを「西洋文化」の象徴と位置づけ、積極的に支援する姿勢は見せないという。確かにフィリピンをはじめとする、欧米列強による長期にわたる植民地支配を経験してきた東南アジア諸国には「植民地アレルギー」が根強く存在している。政府はオーケストラという西洋からの芸術文化を国内で推進することには否定的で、一度はスペインによって根を断たれかけた民族音楽の復興に文化支援の焦点を当てているという。

ちなみに、この伝統的な民族音楽というのはかつて農村地域を中心に国民に愛された、竹などの材料で作った民族楽器の演奏を中心とする音楽である。対して「西洋の音楽」と言えば19世紀頃からフィリピンに盛んに“輸入”されるようになったフォークソングやクラシック音楽の事であり、主にシティに住むハイソな富裕層によって好まれた。鑑賞には輸入物のCDやプレーヤーが必要で、管楽器や弦楽器の演奏を伴うものが多く実際に演奏する際には防音機能の付いた広いホールが必要で、低所得の庶民には浸透していない。

政府は国内のオーケストラ団体を支援することを嫌うが、国際的なセッティングではPPOというオーケストラを駆り出し西洋の音楽を奏で、自国の文化水準をアピールする。これはフィリピンの西洋諸国との付き合い方を非常に顕著に表している皮肉な例だ。私自身は、発祥が西洋であるかどうかを問わず、クラシックの持つ芸術的価値を認め、国民にその文化に触れる機会を提供することも必要であると考えるし、それ以上にクラシックが人々に与えられる感動や社会に与えうるインパクトも大きいと確信している。この部分に関してはまた別稿で詳しく語りたいと思うが、俗っぽいアメリカの大衆音楽を丸々輸入し、米音楽産業の巨大消費者と成り下がっているフィリピンが、オーケストラという高度な芸術文化を「西洋の象徴」などという理由で拒むのは腑に落ちないところがある。

このような文化的環境を鑑み、Jeffery氏は「フィリピン政府に支援を期待するのは得策ではない。むしろ、企業やビジネスマンにスポンサーを依頼する方向で考えている」という。巨大企業にとって文化的・社会的活動の支援を行う事はイメージアップと社会貢献に繋がる。CSR(企業の社会的責任)活動の一環として、社会事業に取り組む企業はフィリピンでも少なくはない。現に、芸術分野への寄付金には政府から税金に関してのインセンティブが認められている。Jeffery氏はそのような企業からの経済的支援を得るため、日々奔走している。

その上で、Jeffery氏は「市や地方自治体からの支援が受けられれば」嬉しいとも漏らした。「オーケストラのある街」と聞けば、すなわち高度な文化水準を持つ知的な街であるという印象を与えることができるし、実際にそのような街づくりにオーケストラが寄与できる部分も大きい。自治体政府のプロジェクトとして、オーケストラの支援を充実させることができれば、豊かな社会づくりも進んでいくであろう。

Jeffery氏は話の中で、ベネズエラで始まった音楽教育事業「エル・システマ」についても触れ、こう言った。「社会の為にある国は教育を選び、ある国はスポーツを選び、そしてベネズエラは音楽を選んだ」。文化事業であると同時に社会事業としての性格を大いに持ち合わせているベネズエラのエルシステマは、結果として多くの若者を貧困や犯罪から救い出し、教育を与え、手に職を付けさせることに成功した。本稿ではこの事業の詳細についての記述は控えるが、彼も「いつかフィリピンもベネズエラのようなアイデアを導入するようになれば」と期待を口にしていた。

政府と言うパトロンに忠実に尽くす為のオーケストラや文化活動ではなく、純粋に、オーケストラの芸術的価値を楽しむだけの文化的土壌、そしてそこから生まれる精神的な豊かさを途上国の人々とも共有したい。それこそが、「途上国」が「途上国」たる由縁を根本から覆していくことのできる道なのではないだろうか。

その為にまずは、人々をより多くの時間、文化に触れさせることだ。

さらに、芸術への批評を育てていかねば、芸術性に進歩はない。

芸術に完璧はなく、それは常に評価・批評とともに育っていくものだからである。

参考文献の中に、ある印象的な一節があったため、ここで抜粋、紹介したい。

“Can art be considered serious or valuable unless it makes a contribution within this context, and has an influence on the people’s way of life?” (p39, Cultural Policy in the Philippines, UNESCO, 1973)

「与えられた背景において何らかの貢献を生むことなく、そして人々の生活様式に影響を与えることなくして、果たして芸術が重要で価値のあるものだと認識されうるだろうか。」

芸術活動が一部の芸術家や一定の社会層にとってのみに意味のあるものである限り、それは社会全体を巻き込む文化の発展には繋がらない。社会全体にプラスのインパクトを与えうるメカニズムと具体的なビジョンをもった文化政策がいま必要とされていると感じる。

次稿では、では音楽教育が実際に社会にどんな影響を与えることができるか、ベネズエラのエルシステマの実例とともに検証していきたいと思う。

<参考文献・資料>

“Cultural Policy in the Philippines” (UNESCO, 1973)

“Cultural Policy and the Performing Arts in Southeast Asia” (Jennifer Lindsay, 1995)

Jeffery Solares氏インタビュー

MSOホームページ2010.11.15参照

(http://www.manilasymphony.com/the-orchestra/the-mso-training-program/)

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それで、MSOのディナーコンサートの前日リハと当日リハを見学させてもらったので、その素直な感想を最後に書いておこうと思います!批評は芸術と一体です

一言で言うと、「嗚呼、フィリピンのオーケストラだな」と。

まず残念なのはアンサンブル能力。そして、個人の技術も伴っていません。

一応全体として音楽は作っているのですが、トッッティもユニゾンもタイミング合わないし、ピッチもバラバラです。多分エキストラで呼んでる鍵盤奏者は、まだ譜読みも出来ていない状態…

かといって、若々しさやエネルギッシュさに満ち溢れているかといえばそういうわけでもなく。

こりゃ日本じゃまず金取れないね。

今回は「ディナーコンサート」で、会場も写真のように豪華絢爛↓

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テーブルマナーとか大変そうがく〜(落胆した顔)

なんと入場料は2800ペソ(フィリピン人の平均月収の半分)!つまり、ドレスを着飾ったマダムやジェントルマン達の社交の場としてのコンサートなんですね。彼らの目的は、音楽を楽しむというより“自分達のステータスを楽しむ”って感じ。彼らの演奏は雰囲気を出すためのいわば“BGM”であって、音楽そのものが主張してはNG。それに、滅多にオーケストラの生演奏なんて聴かないであろう彼らには正直違いもわからないんだと思います。

ここが、どうしてもフィリピンでは芸術が育たない最大の理由。芸術は富裕層の支配の下にあるんです。広く認知されていないから、だれも批評できる人がいない。オーケストラはレベルアップの必要に駆られない。庶民層に広がっていないから母集団が小さい。才能のある人材同士の切磋琢磨が生まれない…。だいたいディナーコンサートの会場だってホテルというプライベートな場所で、音響のいいホールもなければ公共ホールもない。それじゃあより高度な芸術は育たんわな…。

やはり、同じ「途上国でクラシック」といえど、ベネズエラのように「世界レベルを目指す」という目標がない以上、このプロジェクトは感動や奇跡を伴うものにはならず、富裕層のプリビレッジという需要を満たすだけの存在であり続けるのかな。と正直なところ感じました。

Jefferyさんも、自信たっぷりに「MSOはフィリピンでも最も水準の高いオーケストラである」と言っていたし、メンバーも自分達のレベルに満足してしまっている様子。

海外のオーケストラのマネジメント術を学びたいと言っていたけど、まず世界の、少なくともアジア圏のオーケストラと肩を並べられるレベルを目指さなければ、難しいだろうな。

そのためにも、自分がまず必要だと思うのは

1.より広い参加者の幅(母集団拡大)

2.競争

3.ヒエラルキー構造

ですね。

なぜそこまでオーケストラや文化活動にこだわるのか、その部分がまだ全ては吐ききれていませんが、このシリーズの中で自分の中でのモチベーションを少しずつ紹介していければと思います。

とにかく。

完全体の無い音楽だからこそ、きっと今世界を動かす力を持ってると、自分は確信してます。