世界人権週間の訪れを前にして、我がフィリピン大学では人権運動が活発化しています。
世界人権週間とは?(法務省HP:http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken03.htmlより)
国際連合は,1948年(昭和23年)12月10日の第3回総会において,世界における自由,正義及び平和の基礎である基本的人権を確保するため,すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の標準として,世界人権宣言を採択したのに続き,1950年(昭和25年)12月4日の第5回総会においては,世界人権宣言が採択された日である12月10日を「人権デー」と定め,すべての加盟国及び関係機関が,この日を祝賀する日として,人権活動を推進するための諸行事を行うよう,要請する決議を採択しました。
先週は、International Justice Missionという国際NGOと協力して、キャンパス内で、フィリピン国内で撮影された、人権問題に関する写真展が開催され
つい授業前に見入ってしまいました。
撮影も名前から推測するにほとんどフィリピン人写真家が行ったもののようです。
まず思ったのは
「安上がりな割にインパクト強いなー」
ってこと。
こういう国際的、大々的なイベントに限って、予算を贅沢に使って立派なイベントに仕上げますよね、だいたい。
もちろんそれも必要なんです。
なぜなら通常この手のイベントはターゲットがおカネを持った富裕層だから。
みずぼらしい形では誰も振り向かんでしょう。
でも、今回は途上国フィリピンの国立大学UPの中でひらかれた写真展。
額も無い、発泡スチロールのボードにカラーコピー程度の写真を張り付けてある、質素なもの。
ボードなんて準備できないから、天井から糸でつるしてます。
十分だな。と思いました。
伝えたい人に伝わってるよ、間違いなく。
これすら実現するには経済的な困難があったんだろうけど。
いつも思う。
世界は「受け止め方」があって初めて存在しうる概念で、
伝えたいならば「受け止められ方」を考えないと。
でも想定した「受け止められ方」通りに受け止められるはずがないから
表現なんだよな。
ぐるぐる。
「伝える」と「見せる」はまったく違う作業だなと思うわけです。
そして、伝えることがゴールなのか
伝えた先になにか見えないゴールを設定しているのか
それも大きく違うものだなと思うわけです。どっちがどうとかではなく。
この写真展示で、
「貧困って厳しいんだな」って思った人もいれば
「あ、フィリピン人って日本人より色が黒いんだ」って思った人もいれば
「このカメラマン技術すげえな」
「道で生活できるなんて逞しいな」って思う人もいる。
なんなんだろう表現って。
表現者は、なんで表現を続けるんですか?